歴史 祭りの歴史、幕末期山王社祭礼、明治大正時代の山車、中元区山車経過

三国祭りの歴史

(広報みくに407号(平成10年5月1日) みくに龍翔館だより より転載)

三国神社は『延喜式』に記された式内社以来の由緒を持っているそうですが、戦乱などによって中世にはかなり衰微していたようです。江戸時代には山王宮(通称おさんのさん)とよばれていましたが現在の社殿は天保の大ききんのとき難民救済の事業として、三国湊の豪商内田惣右衛門らが境内整備とともに改築を行い、天保10年(1839)に完成したものです。

三国祭りについての古い記録は、江戸時代に何度も大火が起きているので、あまり残っていません。このため当初はどんな形の祭りが行われたか明らかではありませんが、古くからの町内の一つ、大門町の記録によりますと、享保2年(1717)に書き上げた大門町所有の品々の中に「笠ほこ1本」が町内の浄願寺に預けてあると記されていますので、このような笠ほこが祭りの主役だったのでしょう。これより数十年後の宝暦3年(1753)の祭りはややくわしくわかります。この年は10の「山」が奉納されましたがこのときは一つもしくは二つの町内が共同で笠ほこやにない屋台、手ほこなどを出しました。各町内も飾りに腕を競ったようで、この中には今日までほぼ一貫して永代桜の山車を奉納し、現在は合併してその名も桜町と呼ばれている今町、木場町の合同の「糸桜」(しだれ桜)のにない屋台も登場しています。

その後、18世紀の終わりごろには人形を飾る事が定着したようで、それとともに笠ほこやにない屋台も、人々の細工の見事さとともにその大きさを求めるようになったためますます巨大化し、車屋台に大きな人形がのるという今日の形になっていったようです。

これまで最も背の高かった山車は、明治7年に久宝町から出されたもので、筒井浄妙と一瀬法師が宇治橋で勇戦している姿を表したものでした。高さは12メートルほどもあり、神社前の広小路に作られた総小屋に入りきらないため、他の町内からあまり大きすぎる山車は作らないようにとの苦情が出されるほどでした。

しかし、その後も7メートルから10メートルほどの山車は明治の中ごろまで作られ、遠くからも、家々の屋根から首や肩を出したところがながめられ、三国名物の名をほしいままにしたのでした。

明治42年の重大事件の一つとして元新町の記録は「数百年来継続してきた三国神社の祭礼で、山車人形を町内へ曳き回す事が、電話線の架設のために出来なくなり飾り山車になった。」と記しました。前年の明治41年(1908)11月、三国にも電話線が架設され、その後電灯線も張り巡らされました。電線が邪魔となって山車の巡航は困難となり、空き地に飾っておくだけの時期が続きました。このままでは三国名物の名をけがし、祭りも衰微してしまうとの意見が町中から出され、大正4年(1915)の11月に行われた大正天皇御大典(即位式)祝賀余興の曵物を期に、人形を小さくして再び山車を町中へ曵き出そうということになりました。山車の上にははっぴ姿の若者が上がり、竹の棒の先に板を横に打ちつけた道具で電線を持ち上げて、山車の人形を通すという光景は、このときから始まったとのことです。
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★ 参考文献「三国祭-勇壮な武者人形山車-1990 平野俊行」
★ 記事の転載については平成10年5月6日に編集発行の三国町役場総務課より許可を得ています。
★ 三国町役場総務課
 (〒913-8501 福井県坂井郡三国町中央一丁目5番1号 TEL 0776-82-3111)
(三国町は現在福井県坂井市三国町となっています。)
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山車人形の大きさについて

2023年(令和5年)6月11日実施のみくに地区まちづくり協議会主催「三國神社周辺散策」資料によると以下の通り。

1764年以降は人形が主になる。
1772年以降は人形はすべて武者人形になる。人形が大きくなったので車で引くようになった
1814年(文化11年)約3m
1847年(弘化4年)約5m
1894年(明治27年)以降約7m~10m。10m以上は曳くことができないので空き地に飾る
1915年(大正4年)から曳山になる
電線が引かれるようになり、山車人形もちいさくなった。
※山車人形の大きさについてについてはみくに地区まちづくり協議会が詳しいと思います。

幕末期の山王社の祭礼

(広報みくに404号(平成10年2月1日) みくに龍翔館だより より転載)

幕末期にぎやかな祭礼の担い手は、若衆でした。山車の趣向も若衆の発案でした。『大門町記録』によると、天保12年(1841)年には3メートル45センチの「源三位頼政」の人形を大門町が飾っています。その出来栄えについては、次のように記録されています。

 「上出来ニ而、当地一番之出来と申均し候、誠当年外町ニも見事ニ出来候へ共、此丁之義ハ格別宣敷、前代未聞ニて見事ニ御さ候」大変見事で、絶賛されたことがわかります。

人形の身丈は天保10年(1839)から慶応3年(1867)まで記録されています。平均すると4メートル43センチ程あったことがわかります。

人形制作は、塗師屋新七、あるいは、紺屋武右衛門となっています。

山車の趣向は、天保10年より2年おきに「忠臣蔵 鷺坂伴内」「源三位頼政」「猪早太」「森蘭丸」「安倍貞任」「文治安房」「和唐内」「井(由)井正雪」「後藤」「多力雄尊」「安倍保成 狐抱救の図」「遊女梅ケ枝祈願の図」「長刀鉾山」が出されています。

山車屋台を出すようになったのは、それより前の文政7年(1824)に、車人足2人に銀4匁を支出しているので、このころには車屋台が出されていた事がわかります。

幕末には、巡廻の折り、藩主などがしばしばご参拝されています。三国神社所蔵の「万延以来御参詣之記」によれば、万延元年4月殿様参詣、文久3年大奥女中御参詣、元治元年5月御老女、御女中参詣同6月御簾中参詣、慶応元年7月宰相(松平春嶽)様御参詣などが記録されています。

幕末期は、山王社の祭礼を総町あげての一大行事として経営し、町内では町庄屋がその世話と経費の収支を担当し、若衆に作り物の考案制作にあたらせたり、あるいは作り物を職人に依頼したりしていました。最も重要なことは、作り物の出来栄えについてで、見物客の風評を強く意識し、より多くの見物客の来訪を期待し、町内の活況、経済の一層の伸長を願望していた様子が伺えます。


★記事の転載については平成10年2月2日編集担当の三国町役場企画財政課より許可を得ています。

明治時代大正時代の山車

写真提供:山王振興会

明治中期


明治四十年代


明治四十年代


大正壱拾年


昭和壱拾弐年

 

中元区永代記録による山車の経過

当番年 西暦 山車名
天保12 1841 平 知盛
天保14 1843 源 頼義
弘化2 1845 松風汐汲
弘化4 1847 金井谷五郎
嘉永2 1849 安達原婆々岩手
慶応3 1867 屋台制作 西川安右ヱ門・塗師井田一洞斎
明治15 1882 虚無僧
明治17 1884 大石主税
明治19 1886 柳生三男又次郎
明治21 1888 楠 正行
明治23 1890 三条小鍛治宗近
明治29 1896 武内宿禰之韓征代ニ趣ク處1.8丈
明治31 1898 和田義盛東大安寺ニ於テ偽僧景清ヲ補フル處1.9丈
明治33 1900 平 清盛
明治35 1902 平井藤原保昌
大正5 1916 管公手向山参拝
大正7 1918 荒木又右ヱ門
大正10 1921 安部清明妖魔退治
大正13 1924 雀を愛する爺
大正15 1926 桃太郎出生
昭和3 1928 桃太郎鬼征伐
昭和5 1930 桃太郎凱旋
昭和7 1932 姥と金時
昭和9 1934 坂田金時と頼光
昭和11 1936 坂田金時大江山
昭和13 1938 鞍馬天狗
昭和24 1949 佐々木忠信
昭和29 1954 羽柴秀吉
昭和32 1957 源 頼光
昭和35 1960 太閤秀吉
昭和38 1963 猩々
昭和41 1966 遮邦王と烏天狗
昭和44 1969 上杉謙信
昭和47 1972 狐 忠信
昭和50 1975 茨木童子
昭和53 1978 猩々
昭和56 1981 牛若丸と大天狗
昭和59 1984 仔獅子
昭和62 1987 源 頼光
平成2
1990 勧進帳
平成5 1993 「暫」
平成8 1996 太閤秀吉
    以下Kuni追加
平成14 2002 坂田金時大江山 (さかたのきんときおおえやま)
平成17 2005 中暫(しばらく)
平成20 2008 狐忠信
平成23 2011 茨木童子(いばらぎどうじ)