|山車人形について|山車人形制作|人形製作秘話|渡初め|過去の人形山車名|
山車人形について
山車人形が登場したのは、今から約二百年前、安永、天明年間といわれている。
<(三国の民話より)
山車人形の始まりは人形芝居の一座が屋台を建てて人形を飾ったところその年の祭りが大変にぎわった。あくる年岩崎区から人より少し大きい人形を出したのが始まりだといわれている。>
三国祭りに山車六基が三国の町を練り歩くが、これを当番の各地区が出す。当番地区によって三年に一度、六年に一度、十二年 に一度、というように間隔は一定でない。普通新年の会合の時に出し物等決めるもよう。
山車は普通高さが約五メートル五十センチで豪華な衣装をまとった勇壮な武者人形だが、当番地区によって桜山車(桜の木を摸した物を屋台に乗せる)を出す。
祭りがすむとその枝を台所において、火事除けにする。 この地区は決まっている(木場)。 高さが高いため、三国町内の電線は他町に比べて高くはられていて、祭り前には高さの確認(NTTの場合6.6m/2016年)なども行なう。
桜山車写真提供:山王振興会
山車人形の出し物も当番地区によって違い、年によっても違います。同じ当番地区でも前回出した人形をそのまま使うわけではありません。 三国町で唯ひとりの人形師岩堀薫さん(故人、74、三国町錦四丁目、人形制作五十年、平成10年現在)によって制作される(中には青年団等で制作する地区もあります)。祭りが終わると衣装を脱いで藁人形になっ て人形師に引き取られます。二つ山車(一つの屋台に二体の人形が乗って
いる)になると金額が百万近くする物もあります。
山車人形制作
人形の部分で一番難しい顔作りは、粘土で面を作り、和紙を細かく裂いて張りあわせ、乾いたらまた張る。厚さが五ミリほどになるまで何度もこの作業を繰り返す。その上に貝殻を焼いて作った顔料を塗り固める。髪は麻を使う。高さ約八十センチの顔を作るのに三ヶ月はかかる。
胴体はタルキを組み、割竹で肉付けした上からむしろをかぶせ、手足は熱で曲げた鉄板を使用。かぶとやよろいはボール紙を基礎に、形が崩れないように針金を張り、その上から色のついた和紙を丹念に繰り返して張る。刀などの小道具は ベニヤやタルキ、ラワン材などを使い塗料を塗る。衣装の生地は人形に見合った大きさに縫製し、そのまま人形に縫い付ける。
頭写真提供:山王振興会
平成10年の場合、多くの当番区が十六日(土曜日)に渡り初めをする予定で、五月七日から人形の組み立てや衣装の取り付け作業が始まる。
人形製作秘話
(広報みくに421号 (平成11年7月1日) 「三国の匠」より転載)
5月20日。三国祭に町並みを練り歩いた山車(やま)。この山車人形を作って51年。岩堀薫さんに製作秘話をお聞きしました。
■人形作りで難しいところは――深み
人形の顔は、まず粘土で型を作り、それをもとに和紙で5mm程度の厚さになるまで貼りあわせます。厚みが増すと、表面のしわなどの「深み」(立体感)を表すでこぼこが少なくなり、これを計算に入れないと、後でバランスの悪さが強調されてしまいます。若いころは、3体のうち1体しか使いものにならなかったですけれど、今はその確率が低くなりました。
色塗りで、それを調整できるのでは?
いやいや、逆に色を塗るとなおさらそれがわかるんです。ですから、色を塗るかどうか、の判断が難しいですね。時には妻や息子に見てもらい、参考にします。
妻には50年来、衣装を作ってもらっていますから...。
■動かない山車だから――――
昔と今の、作りの違いはあるのですか?
私の父は、手や足の芯棒を生木で作っていましたが、これは動かしようがない。だから今では鉄板を使っています。狭い町なかを引いて歩くためには、サイズにも制限がありますし、ポーズも制約されます。なによりも、動かない山車を動いているように見せるために工夫をしたわけです。
■作るのが不可能な山車――――
ですが、「裃(かみしも)」を着た山車は、どんなに工夫してもできませんね。
下から見上げると、胸の部分にじゃまされて顔が見えない。首を長くして見せようとすると、ろく ろ首のようになってしまう。だから、今まで裃を着た山車は片肌を脱いだ山車になっていますよ。
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■ 記事の転載については平成11年7月2日に編集発行の三国町役場総務課より許可を得ています
■ 三国町役場総務課
〒913-8501
福井県坂井郡三国町中央一丁目5番1号
TEL 0776-82-3111
(三国町は現在福井県坂井市三国町となっています。)
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渡初め
祭当日 (本番)前の土曜日か日曜日に渡初めといって、お披露目をかねて地区だけを練り歩いて 山車や囃子方の調子をみます。平成八年は五月十一日(土曜日)午後に行った。土曜日に 渡初めを行うのは、山車引きの人数が揃うようにするためと、雨天の場合を考え日曜日を 予備日にするためのようです。この時の太鼓担当の子供囃子方(小学生、一町内4~10人 程度)の服装は、地区によって違うがおおむね普段着か体操服に豆絞りのはちまきです。 通常は渡初めが終わると囃子方の練習はしません。練習が必要な場合は、どこか音の聞こえない場所へ行って行うといわれていましたが、現在は定かでありません。また、屋台の車軸には、潤滑に鳥もちを使用します。
★ 山車人形に関して、一部地元新聞を参考にしています。