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「明日も太鼓!\(^o^)/」投稿日 11年5月23日
ピヨピヨ
明日は地元で太鼓の演奏です。
屋外なのですが、このところ お天気崩れていたので、危ないかなぁって心配していましたが この様子だと無事に演奏できそうなので、ホッとしてますo(^-^)o
でも、いつも思うのですが、太鼓って重い!! 準備の時はまだ体力あるけど、終わった後のグッタリ状態での 持ち運びは・・・
明日は長距離、ご丁寧に階段付きです(T_T)
威勢の良さを売りにしている太鼓で、ヨタヨタしたのではカッコ 付かないので、がんばるぞぉ~・・・自身無いけど(^_^;)
「演奏会」投稿日 11年4月29日
朔夜
例年ゴールデンウィークにもコンサートがあったのに、今年は無くて残念。
子供等は昨日ディナーショウに呼ばれ力いっぱいがんばってきました。
頑張りすぎてはしりまくり(^^;)
それでもかなり喜んでもらえる演奏が出来たようです。
なんせちまい子がぞろぞろ来るのではじめは「かわいいー♪」とほのぼの
音を出すといっちょまえなんで「おー」と感嘆の声。
オブザーバーにとっては、この変化がちょっとうれしい。
子供達にも大きな励みになります。
(しかし・・・待ち時間が「お猿」なのが困りもの・・・トホホ)
「太鼓の響きと世間」投稿日 11年2月20日
和。
人間の数だけ、性格って言うか、人間の種類が有る訳で酒の好きな人、嫌いな人、飲まないひと飲めない人、明るい人暗い人、気の短い人長い人。
言い出しゃきりが無い分けで、太鼓の音が嫌いでうるさいと言う人も居ても不思議じゃないですよね、
特に太鼓の音は強烈で叩く場所を考えないと近所迷惑になってしまう。
私達は座間市のある小学校の体育館を日曜日の午後四時間程借りて練習して居るのですが、そこはまだまだ田舎で民家もまばらと言った風情の処なんですが、先日苦情が来てしまった、
はてなと思ったが。隣のピアノの音じゃ無いが、きちっと最初から最後まで通して曲を打つなら聴いている人もリズムがとれて楽しくなるのでしょうが、練習となるとそうは行きません、
途中で止ったり行ったり来たり聴いている人には雑音になってしまう物なんですね。
私達が太鼓を打つ座間市も最近人口が増え太鼓を叩く環境が次第に無くなってきました、
それでも公共の施設があるが中々取れない状況で苦慮している、
まぁ兎角世間には太鼓の音がうるさいって人も居ても不思議じゃないですよね。
トン、ト、コ トン、ト、コ トン、トン、トン、トン。
「始めまして」投稿日 11年1月31日
どこんこ
こんにちは。
わたくしも太鼓に燃えている一人なんですが、みなさんの熱い投書を読んで夜中にバチを取り出してしまいました。
最近思うこと・・・
太鼓って呼吸だな
太鼓って人間関係すぐ出ちゃうな
太鼓って・・・・・・・・う~ん、深い!
内面がぜ~んぶ出ちゃうんですよね。
大江戸助六太鼓の宗家、小林正道氏は太鼓を叩いて40年余と聞きますが、そこまで続けて行けるパワーは一体何なのかなあと不思議に思うことがあります。
みなさんはどんな風に太鼓に向かっておられるのでしょうか?
「ギネスブックに認定されました!!」投稿日 11/01/29
櫛引
みなさん聞いて下さい。
昨年8月9日に北海道の室蘭市で開催したイベント「北響祭’98白鳥大橋千人太鼓」がギネスブックの正式記録として認定されました。
認定内容は『1850人が1845個の和太鼓を使って合同曲「やまびこ」を25間演奏した。』という記録です。
「和太鼓」という言葉がギネスブックに認定されたのは初めてということです。
どなたかこの記録を更新してみませんか!!
元白鳥大橋千人太鼓実行委員会
事務局長 櫛引秀明
「太鼓打ちのおばあちゃまへ」 投稿日 12Jun 1999
ピヨピヨ
私達の会では年に一度お年寄りの施設へ訪問演奏するのですが、私も昨年初めて訪問させて頂きました。
私は全員参加のイベント意外では、これが初舞台です。
チョット緊張・・・
太鼓の絵練習生レベルの子が中心で2曲演奏してきました。同じ曲でも上級者が演奏した時と違って、迫力やメリハリ等未熟なのは解ってしまったと思いますが、暖かく受け留めてもらえ、演奏中に観ていた人が膝の上で真似をしながら手を動かしているという微笑ましいシーンもありました。
演奏後も残って、ご自分で叩いたおばあちゃまが居たのですが、とっても真剣な眼差しです。
彼女は歩くのが不自由らしく車椅子だったのですが、立ち上がって延々と打ち続けていた姿はとってもカッコイイです。
「気合を入れて打つとは、こういう事!」と教えられたようで、未熟な自分が情けないというショックもありましたが、負けてるわけにはいきません。
是非あの意気込みは見習いたいです。おばあちゃまは誰にも負けないくらい、立派な太鼓打ちです!(^-^)
彼女達は御自分からは演奏会に行けないので、聴いてもらえるのはこの時だけです。
貴重な一瞬、今後もガッカリされないよう練習しなくては!
とっても良い経験。とっても良いお勉強をさせてもらいました。
「泡あわ~ 」 投稿日 11/01/23
朔夜
T Vをみていたら太鼓制作の様子が一瞬流されました。
子供は歯磨きを終わったところ口じゅう泡だらけのまま見入ってしまった(^^)
一瞬でよかったね、ずっとだったらうがいにいけなくなるところだもの。
市内に太鼓製作所があり、通る時はつい様子をうかがってしまう私 子供のこと笑えないですね。
「太鼓と私」 投稿日 11/05/09
しんや
我 が三重県では、現在「東紀州体験フェスタ」というのが催されています。
そのオー プニングイベントの中で、林英哲氏作曲によります新曲 「道をゆく人」―熊野道に寄せて―の初演で成功を収めることが出来ました。
私が和太鼓にふれたのは’95年の初夏。
地元の小さな創作太鼓チームです。
およそ1年の間、太鼓を叩くのが楽しくて、楽しくてどんどんのめり込みました。
プロのコ ンサート、CD、ビデオを研究するようになり、歴史を勉強するようになり充実した 時間が流れていきました。
しかし、太鼓を知るにつれて、すごく重大な出来事の当事 者になり損ねていたのです。
太鼓の絵そ れは、去る’94年の三重県で催されました世界祝祭博で、今思えば神様の様な存在の林英哲氏の指導のもと、三重県下の太鼓チームへの呼びかけで三重千人太鼓が結 成され、「千人響海山」という曲を演奏されていたのです。
ショックでした。もう少 し早く和太鼓を知っていたらと後悔もしました。
と ころが、インターネットをするようになり三重千人太鼓のHPを見つけ、アクセス したらなんと、活動を継続されていたのです。
千人とまではいきませんが、100人 前後の選抜チームとして・・・。
真先に、代表の方に連絡を取り、練習を見学させて いただき個人でも参加可能とのことで、すぐに登録(所属)させていただきました。
でも、皆さん5年もの間先の曲を演奏、練習されていて新人が入ったからといって、 私に指導していただける状況でないことは、すぐに理解できました。
それで、イベン トでは裏方に周りお手伝いさせていただきました。
昨 年、10月に三重千人太鼓の5周年記念イベントの時、代表の方より来年に行なわ れる三重県のイベントに向け、再び林英哲氏に新曲を依頼していて、今までのような 大勢で演奏する曲ではなく、少数での演奏をイメージしているとの話を聞きました。
そして、その練習からなら皆と同じスタートだから、叩ける様に頑張って下さいとの ことでした。
平 成11年4月18日
東紀州体験フェスタのオープニングイベントはじまりメッセにて、2人の英哲風雲の 会メンバーを含む20人による「道をゆく人」の演奏・・・。
その叩き手として、参加させていただきました。
林英哲氏の練習指導日には、仕事よりも、どんな用事よりも優先しまた。
先輩の方々 にも良くしていただき独りでの参加のため、各チームでの自主練習ができないから と、声をかけていただき練習に参加させていただきました。
和太鼓を続けていくことで触れ合える人間関係の素晴らしさ。
目標は、必ず実現できる。
といったことを実感しました。
和太鼓へのきっかけは、さ さいな事でした。でも今は、次々に新しい目標も出来てきましたから一生かけて向き 合いたいと考えています。
平成11年5月9日
濱 口 慎 弥
「「鼓童」の公演を見て。」 投稿日 10/12/31
和。
只単に和太鼓演奏と言うと、身も心も震わす様な響きが人の心を捉え、人を感動に導く事が出来るものと勘違いしていた、
その私が鼓童の演奏を聞いて初めて知った、
何だ太鼓をそんな風に思っていたのかと思われるかも知れないが、私の太鼓に寄せる思いの全てを感じた、忘れ掛けていた、これを求めていたのだ、
然しその憧れと現実の違いとでも言うのか、バチを持ち太鼓を打つ自分と幻想とも思われる、いかなる美辞麗句を並べようと言い現せない他次元のものと思われる、あの素朴な力強さ優しさそして勇壮で聞くものに安心感を与える完成された技術、もし芸術に完璧と言う事が有るとするならば、正に「鼓童」こそが当てはまるのではないかと思った。
今私の太鼓を打つ、憧れというか望む姿の思いがより一層高まった、
そして間もなく暮れ様としている今、来年こそ少しだけでも近づこうと心に誓った。
「鼓童感想 」 投稿日 10年12月21日(月)
かぶ
19日、シアターアプルに行ってきました。
私の知らなかった曲が3曲ありました。
土のかたち 98年 池辺晋一郎作曲 団扇太鼓を取りいれてのアンサンブルが新鮮でした。
風天96年 内藤哲郎作曲 内藤さんと金子さんの桶胴太鼓のアンサンブルでした。
テクニックの応酬にたまに笑いの要素が入ってよかったです。
蒼き風 98年 金子竜太郎作曲 山口さんの横笛と、金子さんとのアンサンブル。
とても綺麗な感じでした。
全体を通しての感想は、大人数で打つ演目が少なかった感じです。
まあ、いつもどおりアンコールは盛り上がりましたが。
あと、いつも思うのは鼓童の公演は、MCがまったく無いことです。
最後のありがとうございましたぐらいしかありません。
ファンとしてはもう少し、皆さんの生の声が聞きたい気がしました。
私が、1番感動するのが「三宅」です。
あの低い姿勢を維持するのは、すごい大変だと思うんです。特に前の脚が。
長くなるのでこれくらいにします。では。
「私も見ました」 投稿日 10年12月03日(木)
無邦松
私 も今年の7月3日に江戸東京博物館でSF太鼓道場と日本太鼓道場とハワイ祭り太鼓の演奏を聞きました。
日本は鳴り物に歌舞伎の影響をすごく感じました。
SFはアーティスティックで武芸の影響があり、ハワイはフラダンスから始まったのでどうなるかと思いましたがこれが予想以上に素晴らしく、そのチームワークのよさに驚きました。
あんなにみんなの気持ちが一つになった演奏も珍しかったです。
これは単純な質問なのですが、よい太鼓を打つ人はみんなとてもよい体に恵まれていますが、私が見た限りでは、筋肉隆々なだけよりもその上にある程度の贅肉(と言って良いのか判りませんが)がついているほうが最後まで息が上がらないような気がします。
やはりそうなのでしょうか。
持久力をつけるためには皆さんどんな練習をなさっているかおしえてくださいますか?
それにしてもいろいろなグループの舞台を見るたびに思いますが、演奏者が普段どんな演奏をしているかとか演奏者たちの人間関係とか太鼓への思いとかが全て演奏に出るものですね。
「太鼓のばち」 投稿日10年12月13日(日)
KIKI
私は、自分のつかうばちは自分で作っています。
秋口に山に行き、手頃な木を切 り出してきて、約1年ほど日陰の風通しの良いところで乾かします。
それを自分 の使いやすいサイズに削って使っています。
ご存じかどうかですが、八丈太鼓は 個人打ちが中心ですから、色々な人がそれぞれのばちを使ってもおかしくありま せん。
ばちにも、その人その人の個性が出てきます。ちなみに材料の木ですが、 私は「ムラサキシキブ」「しだき」「グミ」の木等使っています。皆さんどうで
すか。
「北海道の太鼓のルーツを探る旅」 投稿日 10/10/04
櫛引
北海道には約350チーム(平成8年から平成10年までに調査した数字)の太鼓グループが現在あります。
さて、この北海道の太鼓のルーツですが、私のわかっている範囲では、現在の北海道の太鼓文化を築いた人は登別温泉「北海太鼓」の「大場一刀」先生です。
北海道の太鼓打ちでは知らない人は居ないくらいの人で、大場先生の育てたチームは数え切れません。
その先生も昨年の三月にこの世を去りました。
私たちの企画していた「白鳥大橋千人太鼓」の相談役で三年前の「300人太鼓」の時には「千人太鼓をやりとげるまでは、腕が折れるまでみんなと一緒にがんばります。」とおっしゃってくださいました。
「登別観光史Ⅱ(猪俣二郎)」から転載。
●昭和38年「郷土芸能・北海太鼓」の誕生。
話は遡るが、昭和30年・「日本温泉協会」の総会が石川県で開催され、これに南邦夫夫妻・岩永敏男・中牧昇・小山亘・猪俣二郎らが参加した。
総会後のエキスカーションは北陸の温泉巡りであった。
北陸は太鼓のメッカともいわれ、中でも能登・和倉温泉で聞いた和倉太鼓は人々の評判もよく強く印象に残っていた。
この年の理事会で郷土芸能を太鼓とし、和倉から指導者を呼ぶことを提案、承認された。
この年の9月、ケーブル会社の神田専務が岩原秀夫を介して面会を申し込んできたので会い、3人で話した。
神田専務の話は同社の加森社長が福井・大野市の「奥越太鼓」を聞いて感銘を受けこれを同社に取り入れようと既に指導者2人を11月に招いているという。
ついてはこれを協会で取り上げて貰いたいということであった。
結局、話がそこまで進んでいるのであれば、これを採用せざるを得ないと判断しこれを了解した。すぐに安斉さんに電話を入れ事情を話しお詫びをして和倉の件は断った。このことは、次の理事会で経過を説明し了承された。
11月になって、「奥越太鼓」の指導者2人による特訓がグランドホテルの大広間舞台で始まった。
7・8組のチームが特訓に参加し、これが12月中旬まで続いた。
この間に井崎さんはわざわざ2回来てくれた。
この太鼓の名称を「北海太鼓」としたのも、背中に「の」の字の半纏をデザインしたのも井崎さんの考案によるものである。
この特訓を受けた50人程の中で、特に抜きんでた巧者がいた、大場一刀である。
彼はグランドホテルのすし職人をしていたので仲間を集めて同ホテルで練習をしていたが、やがて上司との確執もあり、太鼓で独立したいという野心もあって同ホテルを退職した。
大場一刀が独立して、当初は生活の面で相当の苦労があったようだが、彼特有の負けず嫌いの性格・優れた音感・マネージメントの能力・努力・侠気が困難を克服して、やがて「大場一刀と北海太鼓グループ」を編成する。
その最初の発表の舞台となったのが第1回「登別地獄まつり」であった。
というわけで、北海道の太鼓文化のルーツは福井ということになります。
他にも、全国いろいろな地方から北海道へ、太鼓の芸能文化は伝承されて来てはいますが、伝統芸能色のあまり濃くない創作太鼓の草分けはやはり大場一刀先生だと考えます。